鈴木敏文が「コンビニの玉座」から降りた日

  • 2016.04.09 Saturday
  • 07:59
JUGEMテーマ:気になること
鈴木敏文が「コンビニの玉座」から降りた日
東洋経済 引用

会見中、天を仰ぎ、目をぬぐう場面も見られたセブン&アイHDの鈴木敏文会長兼CEO。日本にコンビニを根付かせ、同社を世界有数の流通企業に育てた。こうした形で会社を去ることに何を思うのか

まさに急転直下の展開だったーー。

4月7日、セブン&アイ・ホールディングス(HD)は鈴木敏文会長兼CEO(最高経営責任者)が退任すると発表した。同日午前に行われた取締役会で、鈴木会長が提案するセブン-イレブン・ジャパンの井阪楼貅卍垢鮓鯊紊気擦訖融案が成立しなかった。全取締役15人のうち7人の賛成しか得られなかったことで、鈴木会長は自らが信任を得ていないと判断し、退任する運びとなった。

退任を決意したことで、出席予定のなかった2016年2月期決算会見に急きょ出席することになった鈴木氏。会見での一問一答は以下の通り。

井阪君の発言には、ものすごくがっかり

――具体的に引退を決意したのはいつなのか。今日役員会が開かれているが、そこではセブン-イレブンの人事案が否決された。どんなやり取りがあったのか。

鈴木会長:役員会の席で井阪社長も発言した。いかにも「1人でやってきました」というような発言だった。ものすごくがっかりした。この役員会に出席しないセブン-イレブン・ジャパンの役員も、「よくそんなことが言えたもんだな」と言っていた。

今の井阪君を信任して、私がやっていくということは、かえって将来に対して禍根を残すことになる。私は役員会が終わったあと、急きょ、村田君にも集まってもらって、「今日引くよ、記者会見するよ」と言った。

みんなびっくりしていました。引き留めてくれたけど、7〜8年間最高益でやってきた。新年度(2017年2月期)も最高益を出せるだろうと思いました。お荷物といわれたイトーヨーカ堂も、なんとか見通しが立てられるような状態に向きつつある。そういう意味では私は逃げ出すわけではない。自分で十分納得できた。

――役員会での人事案は何対何で否決されたのか。

鈴木会長:全取締役が15人で、私どもの会社案に対して反対が6票、賛成が7票、白票が2票だった。

――この票数だと賛成の方が反対より多く見えるのだが?

村田紀敏社長:賛成の方が多いと見えるかもしれないが、この件については15名の取締役の出席に対し、賛成が過半数を超えないと可決しない。全体では賛成が多いが、実態としては8票に達していなかった。

鈴木会長:それから、私自身としては、反対票が社外役員をはじめ社内の役員からも出るようだったら、私はもう信任されていないということを考えていた。6票、7票、2票というのは、まったく問題にしていない。

――会長が退任した場合、当面の経営体制をどうするのか。

鈴木会長:これからみんなと相談していく問題で、私が誰かを指名するというのは考えていない。会社の人事案が否定されたが、井阪君が信任されたわけではない。引退を発表した私が明日から会社に来ないという無責任なことはしないが、いずれにしても新体制に立候補する気はない。

息子に世襲させるなど、一度も言ってない

――後任人事についてはどう考えているのか

汗なのか涙なのか、鈴木会長は何度も目尻をぬぐった

鈴木会長:なんで息子(鈴木康弘セブン&アイHD取締役)の話が出てくるのか。それが社外でもそういう話が飛び交っているということを知って、びっくり仰天している。

そんなこと一度も言ったことないし、息子に対してそんなこと考えたこともない。

ましてや、セブン-イレブンの社長にタッチしたわけでもないですし、技術屋である。それがまことしやかに社内で言われるというのは、私の不徳の致す所だ。

――今回の人事案が否決されたことに、責任を取るという意味もあるのか?

鈴木会長:それはある。私は執行部としてやってきて、多くは人事を担当してきた。これまで、自分の人事案に対して否定されたということはまったくなかった。ましてや資本と経営の分離ということは、私自身が行ってきたことだ。自分で行ってきたことに責任を果たすという重要性を自分自身に言い聞かせている。

――井阪社長の進退問題が、鈴木会長の退任に変わった背景には、創業の伊藤家の存在があるのか。経営を任されていたはずなのに、伊藤家から最後の最後ではしごを外されたという思いから決断したのか。

鈴木会長:資本と経営の分離を言ってきた。(伊藤家の)資本そのものは10%ぐらいの株式を所有している。経営に大きく影響するような資本額ではない。フランチャイジービジネスを考えると、それなりのことをきちんとしておかなければならない。

何もセブン−イレブンだけの問題ではなくて、総反対されたなかでコンビニを作ってきた使命から考えても、資本と経営の分離はきちんとしたことが小売業においても重要なことだ。

――コンビニを作って、セブン銀行も立ち上げて、伊藤家にとって鈴木会長の貢献はすごく大きかったはずなのに、なんで最後の段階ではしごを外されたのか。

鈴木会長:非常に言いにくいことなので、ご勘弁願いたい。ようするに世代変わりがあったということだ。

私の不徳の致す所である

――鈴木会長はセブンの創業者、伊藤雅俊名誉会長はイトーヨーカ堂の創業者。両者で話し合って常識的な解決できなかったのか。

鈴木会長は会見の冒頭30分ほど、井阪社長や伊藤名誉会長への不満を述べた後、突如辞任を決めたと宣言した

鈴木会長:今までずっと、良好な関係にあった。ここにきて急きょ変わった。

今まで私が提案したことについて、拒否されたことは1回もなく、了承されてきた。

しかし世代が変わった。抽象的な言い方かもしれないが、ご理解いただきたい。

――取締役会や指名報酬委員会での説明が不足していたのではないか。

鈴木会長:指名報酬委員会では5時間かけて議論した。決して時間がなかった、ということはない。

――指名報酬委員会で5時間かけて議論、社外取締役も疑問視した。結局、指名報酬委員会の存在意義とは何なのか。

鈴木会長:7年間、最高益を続けた社長を辞めさせることは、世間の常識が許さない。その一点だ。

――鈴木会長の具体的な退任時期はいつになるのか。

鈴木会長:(退任は)今日決めたこと。明日出るはずのアナリスト説明会にも、辞める以上は方針を説明できない。出ない理由は何だ?となるので、皆様に辞めるということを申し上げたほうがいいということで、会見を開いた。

――なぜ、後継者を育てられなかったのか。

鈴木会長:私の不徳の致す所だ。

伊藤雅俊「私の履歴書」 日本経済新聞社

伊藤雅俊氏は、イトーヨーカ堂、セブン−イレブン、デニーズなどイトーヨーカ堂グループの創業者であり、現在はセブン&アイ・ホールディングスの名誉会長をなされています。 1974 年、東京都江東区豊洲でのセブン−イレブン第一号店のオープンは、日本のコンビニエンスストア時代の幕開けであり、その後の日本の小売業の方向性を決定付けた出来事です。

伊藤氏は、米国でチェーンストアの素晴らしさに感嘆し「これからの日本人も時間に価値を置くようになる」と直観したそうです。その後、いち早く POS を導入し画期的なマーケティングを展開、成功しました。お客様を第一と考える彼のこの商売人哲学は、イトーヨーカ堂グループにおいて、合言葉「同業他社より顧客に視線を向けろ」としてしっかり貫かれています。


伊藤氏は幼い頃から、イトーヨーカ堂の前身「羊華堂洋服店」を開業されたお母様とその経営を手伝った年の離れたお兄様の後ろ姿を見て、商売の厳しさを感じ育ったそうです。お母様の教えで、彼が経営の基本に据えた考え方があります。それは「『お客様は来てくださらないもの』『お取引先は売ってくださらないもの』『銀行は貸してくださらないもの』と考えなさい」という教えです。「だからこそ、信用を大事にしなければならないのです。信用の担保はお金やモノではありません。人間としての誠実さ、真面目さ、真摯さがあって初めて、信用していただけるのです」という彼の言葉には重みがあります。また次の言葉からは、彼のその誠実さ、真面目さ、真摯さが伝わってきます。「イトーヨーカ堂を支えてくださったのは、まず誰よりお客様です。それに取引先の方々、従業員の皆さんの力でここまで来られたのです。私は自分が人より優れていると思ったことは一度もありません。ただ小売業が好きで、母と兄に教えられた『お客様の方を向いた商売』をコツコツと続けてきただけです。」

伊藤氏とピーター・ F ・ドラッカーは互いに尊敬しあう 30 年来の親友でした。ドラッカーとの家族ぐるみの親交は、彼らの出会いの後すぐに始まったそうです。ウィーンで生まれ、第二次大戦を挟む波乱に富んだ人生のドラッカーと、激動の昭和史を生き抜いた伊藤氏には、共有される人生観があったのでしょう。二人とも激動の時代に翻弄されながらも、人間中心の真摯な視点だけは決して失いませんでした。「ヨーカ堂グループが、セブンイレブンというフランチャイズビジネスを通じ、小売業の主流から落ちこぼれるはずだった個人商店に商売の主流に乗る方法を提示したのは、偉大な社会革命である」とは、ドラッカーの言葉です。ドラッカーが日本を訪れたとき、逆に伊藤氏が米国を訪れたときは必ず一日共に過ごし、世界経済や日本経済、伊藤氏が実際に直面している課題などについて議論を交わしたそうです。

伊藤氏は 300 万ドルの現校舎建築支援及び、 2003 年には 2000 万ドルの寄付を行いました。それに伴いドラッカーの要望もあって、スクールの名称もドラッカー単独のものから「 The Peter F. Drucker and Masatoshi Ito Graduate School of Management 」と両者の名前が刻まれ、今日に至っています。

ドラッカーは残念ながら 2005 年 11 月に亡くなってしまいましたが、校舎には 2 人の功績が並べ称されています。教授陣やスタッフ、そして我々学生は、彼らの人間を中心に据えた思想を長く受け継ぎ、そして社会に貢献する為、日々研鑽に励んでいます。

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